天理への道

丹波市ファンタジア

2001年10月
ページ12

商店街を抜けるとそこは・・。

宗教は五感で感じるもの、
大きいことはいいことだ、
青い空と屋根の境に「天の理」が見える?
さて、天理教の施設の立派さに圧倒されたあとは、銭湯探し。
日本各地の信者が天理に「お帰り」になったとき、宿泊する施設が建ち並ぶ川原城町の町中を通り過ぎたら「よふき湯」という銭湯があるらしい。
よふき湯さんに到着、というところで何か怪しげな建物を発見。
丹波市劇場
『丹波市劇場』と書かれてある。
思わず走り寄ってみてみると現在は廃館となった映画館である。
ポスターの類もすっかりはがされ、無機質な廃墟になってしまっているが、
数年前まで営業していた天理市最後の映画館だったらしい。
すっかり建物に魅入られた私に、地元の人が話をしてくれた。
昔は大映や新東宝、洋画の封切り、近年はにっかつポルノなどを上映していた。大分以前は、映画館ではなく文字通り「丹波市劇場」として旅回りの役者が芝居していた、という話に興味を持つ。
芝居小屋として営業していたのはいつ頃の話だろう。図書館で『映画年鑑』昭和16年版をペラペラめくると、映画館としてあった。昭和5年版には載っていなかったので、昭和10年前後に芝居小屋から映画館に転身していたのだろう。では、ほとんど芝居小屋の当時を知る人はいないわけだ。昭和30年の年鑑には「封切館600席、木造二階建」とある。600席というのは堂々たるものだなあ。1996年の年鑑には「96席 にっかつ洋、木造一階建」とあったのでいつの頃か随分規模が縮小されたのか。
ふと「丹波市劇場」をモチーフにいくつかの疑問がわいてきた。
なぜ「天理劇場」でなく「丹波市劇場」というネーミングなのか?それに現在は小規模な商店と住宅が閑静に立ち並んでいるだけの界隈になぜ劇場がポツンとあるのか?
その疑問を解消すべく、映画館の話をしてくれた地元の方に「ここらへんは丹波市っていうんですか、市場があったんですか」と尋ねた。私はこれまで丹波市という地名を聞いたこともなかったのだ。答えていうには、街道筋に魚や油を中心に扱う市場があり、丹波市というのはこの辺りの中心の市場町、宿場町であったらしい。地図で確認するとちょうどJR線に沿って上ッ道が通っている。街道筋の市場町、人が集まり芝居小屋もできる。「今は寂れてるけど・・」と語る地元の方のことばが往時の繁栄を感じ取らせる。
なるほど・・、丹波市はここらへんの地名で、昔はかなり栄えていたところなんだ。で、その中心地に劇場をこしらえたんだと・・。しかし、昭和40年代に600席規模の映画館があったんだから、 かなりこの界隈は栄えていたはずなのに、こんなに急激に町の風景が変わるものなのかなあ?
疑問がわいてきた。何かワクワクした。
天理教という神秘のヴェールに飾られ包まれた天理の町も素晴らしいが、この「丹波市劇場」に感じた疑問をとけば天理の違った魅力を発見できるような気がした。

さっそく家に帰って調べてみた。

「丹波市」という地名が文献上に登場するのは室町時代中期から、らしい。
すると600年以上、交通の要所として栄えたことになる。
すごい。丹波市という地名に地元の人が愛着を持つのはわかる。
そして近代に入って、明治31年に今のJR桜井線がこの付近まで開通する。
その時、できた駅が「丹波市駅」!!
え、天理駅じゃなくて丹波市駅?そう思って続けて調べてみると、
国鉄の丹波市駅が天理駅に改名したのは昭和41年のことだそうだ。
なんだつい最近?まで、丹波市駅だったのか!!
じゃあ、丹波市劇場というネーミングはなんにも不思議じゃないなあ。

よくよく調べてみると、天理市が市制を布いたのは昭和29年なのだそうな。
丹波市、柳本、櫟本の各町、朝和、二階堂、福住の各村が合併して
天理市になったのである。
そして天理市庁舎が新設されるまで、丹波市町役場が市役所として使われた
そうだから、丹波市ってのは「天理」以前の天理市の中心地だったのである。
なるほど世が世なら丹波市が市制を布いて「丹波市市」になるところだったのか。
でも「丹波市市」は言いにくい(笑)

丹波市劇場が建てられた当時の感覚からすると、天理劇場よりも丹波市劇場
の方がしっくりくるネーミングだったというわけだ。

では、次に栄えていたはずの丹波市劇場界隈がなぜ、今のようになってしまっ
たのか、という疑問。
これには私が想像もしていなかった歴史があった。
先ほど昭和41年に丹波市駅から天理駅へと改称されたと書いたが、改称され
ただけでなく駅の場所そのものが大幅にかわっていたのだ。
その年はちょうど天理教教祖80年祭。それを機会に、近鉄と国鉄を統合した駅
をつくることになり、それぞれ路線を100メートルほど移動したというのだ。

その路線移動に関してはまとまった資料が見つからず、かなりアバウトに書いたのだが、イメージとしては左の地図のようになる。
近鉄の旧天理駅は天理大通商店街のちょうど入口に駅があったのを現在の駅まで後退させた。
国鉄の丹波市駅は現在の天理市民会館がある場所にあったのを北西へと移動させ、天理駅に改称した。
そうすると丹波市劇場は国鉄の丹波市駅のほんの駅前にあったことになるのだ。
これで謎がとけた。しかし、なんでこんな駅から離れた住宅街の一角に映画館があるんだろう、という疑問の答えが「昔は映画館の前に駅があって結構栄えてたんだよ」だとは考えもつかなかった。

私はこのレポートの1ページ目に何気なく「本通を外れても結構、店舗があり底力を感じます」と書いたのだが、丹波市の歴史を考えてみると当たり前のことなのである。

天理教の教勢が盛んになる前は南北に通る上ッ道がここらへんの「本通」であったはずだし、
丹波市駅がかの地にあった当時は天理本通とは別に丹波市駅前の商店街が開けていたはずなのである。また丹波市は石上神宮への参道としても機能していたから、その参道筋も商店が軒を並べていたはずだ。
つまり、いたるところに商店街が形成される要素があった。

天理といえば天理教、一大宗教都市である。
神秘性と威風で他を圧倒する宗教施設、そして各地から集まってくる信者を温かく迎える宿坊や商店街が町を形作っている。
しかし宗教都市「天理」のヴェールを取り払ってこの町を見てみると、上街道の交通の要所として中世以来、市場、宿場として栄えた「丹波市」という別の顔が見えてくる。

そんな天理のもう一つの楽しみ方を気づかせてくれた丹波市劇場に感謝。

※追記
近鉄の旧天理駅前には昭和2年頃に「天理座」という映画館ができた。
それ以来天理市の映画館は天理座、丹波市劇場の2館がしのぎを削っていたという図になろうか。
弁天座はきっと路線移動の頃まで営業していたのだろう。昭和中期に450席の規模。

丹波市のことを調べている間にかの民俗学者・柳田国男が「丹波市記」という数ページの旅行記を大正5年に発表していることを知った。その中の一文「とうとう丹波市を一箇の小エルサレムにしてしまった」。

『天理市史』における「丹波市の沈滞」の記述
「天理教の影響で三島・川原城方面が急激に発展したので、北部が栄えて町の中心が北方に移り、この付近(丹波市のこと・いのきん注)は沈滞の姿になっている」